いざというときに役立たず


 ピューと甲高い音が鳴った。
 コンロの上で水蒸気を吹き出しているやかんは、己の存在を主張するように何度も叫ぶ。無視して読書を続けようとしていた成歩堂も、流石に根負けして視線をコンロに向けた。
 勢い良く熱せられたやかんは小刻みにカタカタと動きながら、音を発していた。
「わかった、わかった。」
 広げていた本にペンを挟んで栞にして、パーカーを被せている椅子を手摺がわりに立ち上がり、ガスを止める。そうすると、さっきまでの喧噪が嘘のように台所は静まりかえった。薄い朝陽が、窓を白く染めつつある時間。
 朝食の準備でもしようかと、かけておいたやかんや鍋だったが、少々早すぎたのかもしれない。それにしたところで、鍋、釜に囲まれて仕事してるなんて、随分所帯じみてるなぁ。
 そんな事を思いながら、手慣れた様子でポットにお湯を移す。
 ここら辺は、娘であるみぬきにばっちりと教育がなされていたが、湯気が成歩堂の視界を邪魔したおかげで、僅かにずれた目標通りお湯はポットの端を濡らた。それだけでは飽きたらず、跳ねたお湯が成歩堂の腕に降り注ぐ。

「うわっちちち…!!!!!」

 車に跳ね飛ばされても捻挫ですむ男だったが、痛点はあるらしく、盛大に叫び声を上げる。安普請のアパートにその声は響き渡った。
 根性だけでやかんをコンロに戻し、火傷によって赤くなった腕に息を吹きかける。沸騰したばかりのお湯、熱さも半端じゃない。吹きかかる息ですらズキズキとした痛みを表皮上にもたらした。
 
「……何? 煩くて寝てられない…。」

 寝ぼけた表情で片目を擦りながら、響也が台所に姿を見せる。普段なら綺麗に巻かれた髪も解れて、左右の肩に散らばっていた。
 寝起きが良いとはいえない響也だったが、赤くなった成歩堂の腕を見た途端、瞠目する。
「どうしたの!?」
「ああ、響也くんおはよう。ちょっと火傷を…ね。」
 (まだ朝は早い。もう少し寝てても良いよ)と苦笑いを返した成歩堂の腕を乱暴にひっつかむと、響也は流しの蛇口まで連れていく。
「冷やさなきゃ駄目だろう! ったく何やってんだよ、アンタ。」
 片手でカランを捻り、勢い良く吹き出した水道水の中に響也は成歩堂の腕ごと、自分の腕をつっこんだ。最初は火傷にかかる冷水が気持ちが良かった成歩堂だが、他の部分がどんどん体温を吸い取られて冷えてくる。
 指先からの痺れが、ジンジンと別の痛みに変わっていた。
「うっ、冷ったっい。もう、いいだろ? 水道代も莫迦にならないし…ね、響也くん」
 経済事情を楯に引っ込めようとする成歩堂の腕を、響也は許さない。ぐっと、今度は両手で戻して、碧い瞳で睨み付けた。
「子供じゃないんだから我慢しろよ。充分冷やさないと、後で吃驚する位に腫れ上がるんだぞ。」
 怒りの表情で睨まれて、成歩堂は視線をそらすべく顔を降ろす。
 すると、隣に立つ響也の生脚がシャツの裾から見えた。程良く引き締まった褐色の脚に吸い寄せられるように視線を向ければ、昨日つけた痕が柔らかな表皮に色を残していた。思わず、にやりとしてしまった成歩堂に叱咤の声が飛ぶ。
「ちょ…何見てんだよ、アンタは!」
 しかし、生返事のみで視線を逸らさない成歩堂に、居心地が悪そうに長い脚がもぞりと動いた。


content/ next